ロサンゼルス・レイカーズのスターであり、日本代表のエースでもある八村塁。しかし、彼がバスケットボールを始めたのは13歳と遅く、NBAの存在すら知らなかったという。
それでも、限られた時間の中で努力を重ね、アメリカの強豪大学に挑戦し、NBAドラフトでトップ10指名を受けるまでに成長。そして今、レイカーズの一員として、優勝を目指して戦っている。
今回、YouTubeチャンネル「Beyond The Buzzer 13」で公開されたポッドキャスト番組でのインタビューをもとに、八村塁のNBA入りまでの道のりや、レイカーズへの移籍、そして彼がどんな思いでプレーしているのかについてまとめた。
ここからは、番組の内容を要約したもの。八村選手の言葉を通して、彼の歩んできた道や考えに触れてみてほしい。
この動画は、2024年夏に八村塁選手がヨルダンを訪れた際、SD13スポーツアカデミーで撮影されたものです。インタビューは、同アカデミー内のZain Studioにて行われました。この訪問中、八村選手は現地の子供たちやファンと交流し、バスケットボールクリニックやコミュニティ活動に参加しました。撮影は、Beyond The Buzzer 13のチームが行い、八村選手の自然な表情や会話を引き出すリラックスした雰囲気の中で進められました。
1. NBAを目指すまでの努力と苦労――13歳でバスケットボールを始めた少年
インタビュアー
「八村さん、バスケットボールを始めたのは意外と遅かったんですよね?」
八村塁
「はい、13歳の時ですね。最初はルールも何も知らなくて、ドリブルすらできませんでした。でも、中学のコーチが僕を見て『お前はNBAに行く』って言ったんです。その時はNBAが何かも知らなかったけど、彼が映像を見せてくれて、少しずつ興味を持ちました。」
インタビュアー
「そこからどんな努力をしたんですか?」
八村塁
「とにかく必死でした。僕は元々運動神経が良かったから、バスケの動き自体は早く吸収できた。でも、技術や戦術はまだまだだったので、毎日練習を重ねました。
高校に入る頃には、日本のトップレベルでプレーできるようになっていました。でも、それでもNBAにはまだ遠い存在だったんです。」
2. アメリカへの挑戦――英語も分からないままD1へ
インタビュアー
「そこからアメリカに挑戦することになったんですよね?」
八村塁
「そうです。でも、これが本当に大変でした。まず英語がまったく話せなかった。最初は授業の内容も分からないし、チームメイトとも会話ができない。
バスケットのプレーでも、日本とは違ってフィジカルが強く、スピードも全然違いました。最初の1年目は、試合に出るのも難しかったですね。」
インタビュアー
「どうやって乗り越えたんですか?」
八村塁
「とにかく必死で勉強しました。授業のノートを必死に取って、夜中まで英語の勉強。バスケのプレーでも、チームメイトの動きを真似しながら、必死に順応しようとしました。
途中で何度も心が折れそうになったけど、『NBAに行くんだ』という夢だけは捨てなかった。 それが僕を支えてくれました。」
3. NBAドラフト指名の直後――電車の中での葛藤
インタビュアー
「NBAドラフトで9位指名を受けた翌日は、どんな気持ちでしたか?」
八村塁
「本当に夢みたいでしたね。名前が呼ばれた瞬間はすごく嬉しかったし、家族も一緒にいてくれて、『やっとここまで来たんだ』っていう安堵感もありました。でも、すぐに現実がやってくるんですよ(笑)。
メディア対応や家族との食事会がずっと続いて、結局ほとんど寝られませんでした。もう、ずっと『おめでとう』って言われ続ける感じで(笑)。で、ようやく夜が終わったと思ったら、翌朝にはワシントンD.C.に向かわなきゃいけなくて。」
インタビュアー
「それが、まさかの電車移動だったんですよね?」
八村塁
「そうなんです(笑)。普通、NBA選手ってみんなプライベートジェットで移動するイメージじゃないですか?でも、僕は朝起きて、荷物をまとめて、そのまま電車に乗ることになったんです。
寝不足の状態で座席に座って、ボーッと外を眺めているうちに、ふと考えたんです。『俺、本当にNBA選手になったんだよな?』って。」
インタビュアー
「その瞬間、どんな感情がありましたか?」
八村塁
「なんか、不思議な感じでしたね。昨日の夜は、家族やメディアに囲まれて、ドラフトの舞台に立って、人生が一気に変わったような気がした。
でも、今は普通に電車に乗ってる(笑)。『これは現実なのか?』って、すごく混乱しました。」
インタビュアー
「まるで映画のワンシーンみたいですね。」
八村塁
「本当にそんな感じでした。でも、ちょっとずつ実感が湧いてきて、次第に『ここからが本当の勝負なんだ』って思い始めました。
ドラフトで指名されたこと自体は素晴らしいことだけど、それだけではNBAの選手として成功したことにはならない。
ここから、自分の価値を証明しなきゃいけない。試合に出られるかも分からないし、チームの中でどんな役割を与えられるかも分からない。でも、『俺はここでやっていくんだ』って、電車の中で少しずつ気持ちが切り替わっていきました。」
インタビュアー
「まさに、NBA選手としての第一歩ですね。」
八村塁
「そうですね。でも、その時はまだ、D.C.に着いたら何が待っているのかも分からなかったし、これから何が起こるのかも全く想像できなかったです(笑)。
でも、その電車の中で考えたことは、今でも忘れられないですね。『NBAに入ることがゴールじゃない。ここからが本当のスタートなんだ』って。」
4.NBA入団直後――「すべてが自分次第だった」
インタビュアー
「NBAにドラフト指名されてすぐ、どんなことに苦労しましたか?」
八村塁
「一番大変だったのは、すべてを自分で管理しなきゃいけないことでした。高校や大学では、コーチやスタッフがある程度サポートしてくれていました。でもNBAでは、自分で住む家を決めて、車を手配して、食事の準備も全部自分でしなきゃいけない。最初は何をどうすればいいのか、本当に分からなかったですね。」
インタビュアー
「ルーキーの選手は、いきなり大人の世界に放り込まれるようなものですよね。」
八村塁
「そうなんですよ(笑)。お金の管理も最初はすごく大変でした。いきなり大きな契約金やスポンサー収入が入ってくるんですが、『これをどう使えばいいのか?』『どこに預けるべきなのか?』なんて全然分からなくて。エージェントにも『NBAに入ったら、まず会計士を雇え』って言われました。」
インタビュアー
「トレーニングや試合の面ではどうでしたか?」
八村塁
「プレーのレベルも全然違いましたね。大学では、チームメイトと一緒に練習しながら助け合うことができました。でも、NBAではみんなが自分の生存競争をしている場所。『この試合で結果を出さなきゃ』とか、『自分の価値を証明しなきゃ』っていうプレッシャーが常にありました。」
インタビュアー
「特に最初のシーズンは、適応するのが難しかったのでは?」
八村塁
「本当にそうでした。最初の1年は、試合のスピードに慣れるのも大変で、体の使い方も全然違う。大学では通用したプレーがNBAではまったく通用しないこともあって、毎試合が学びの連続でした。」
インタビュアー
「具体的には、どんな部分が大変でしたか?」
八村塁
「まず、フィジカルの違いですね。NBAの選手はみんな身体が強いし、ディフェンスの当たりもめちゃくちゃ激しい。大学ではスピードや技術である程度勝負できたけど、NBAではフィジカルが圧倒的に違う。
それと、試合の読み方も違いました。NBAでは、個人のスキルだけじゃなく、バスケットボールIQが求められる。ディフェンスのローテーションとか、チームの戦術とか、そういう細かい部分を理解しないと、試合で生き残れないんです。」
インタビュアー
「周りの選手たちやコーチは、どう接してくれましたか?」
八村塁
「チームメイトはみんな親切でしたけど、基本的には自分から聞かないと何も教えてくれないんですよ(笑)。だから、分からないことはとにかく質問しまくりました。
大学ではコーチが細かく指導してくれたけど、NBAでは『自分で学ぶ』のが当たり前。自分から積極的に動かないと、置いていかれる世界なんだなと感じましたね。」
インタビュアー
「今振り返ってみて、NBA入り直後の一番の学びは何でしたか?」
八村塁
「『自分のキャリアは自分で切り開くしかない』ということですね。
NBAは、ただプレーが上手いだけでは生き残れない。自己管理、メンタルの強さ、試合の準備、全てが重要です。最初の1年は本当に大変だったけど、その経験があったからこそ、今は自分のやるべきことが明確になったと思います。」
5.ワシントン・ウィザーズ時代の思い――「NBAのリアルを学んだ4年間」
インタビュアー
「八村さんは、NBA入り後に最初に所属したワシントン・ウィザーズで4シーズンを過ごしましたね。当時を振り返って、どんな思いがありますか?」
八村塁
「ウィザーズは、僕にとってNBAのリアルを知る場所でした。ドラフト9位で指名されて、すぐにスターターとして試合に出たけど、最初の数年はNBAの環境に適応するのが精一杯でしたね。
ウィザーズではいろんな経験をしました。チームの状況も毎年変わるし、プレーオフ争いも厳しい。NBA選手としての現実を学んだ4年間だったと思います。」
1年目:ルーキーイヤーの衝撃
インタビュアー
「ルーキーイヤーの頃はどんなことに苦労しましたか?」
八村塁
「とにかくフィジカルの違いが衝撃でしたね。大学ではフィジカルでもある程度通用したけど、NBAの選手たちは当たりの強さもスピードも段違い。スクリーン1つ取っても、ぶつかる衝撃が全然違うんです。
でも、当時のコーチやチームメイトが僕を信じてくれて、ルーキーの年からスタートを任されました。それはすごくありがたかったですね。」
2年目:成長と停滞
インタビュアー
「2年目以降はどうでしたか?」
八村塁
「2年目は少し成長を感じられたシーズンでした。でも、NBAって『ただ上手くなればいい』わけじゃなくて、どうやって自分の価値を証明するかが大事なんです。
僕はオフェンスもディフェンスもバランスよくプレーするタイプだから、逆にチームのシステムにフィットするのが難しくなることもあった。『俺は何を武器にするべきなんだ?』って悩んだ時期もありました。」
3年目:怪我とコロナの影響
インタビュアー
「NBAでは怪我や外的な影響でリズムを崩す選手も多いですが、八村さんもその時期がありましたね。」
八村塁
「そうですね。3年目は怪我もあったし、コロナの影響でシーズンが思うように進まなくて、すごく難しい年でした。
あと、NBAはシーズンが長いし、精神的なタフさも必要。一度リズムを崩すと、それを取り戻すのが大変なんです。僕も試合に出られない時期があったけど、そこで腐らずに自分のメンタルを強くする方法を学んだと思います。」
4年目:レイカーズへのトレード
インタビュアー
「ウィザーズでの最後のシーズン、そしてレイカーズへの移籍。この時はどんな気持ちでしたか?」
八村塁
「正直、トレードの話が出た時はびっくりしました。でも、NBAではトレードは当たり前のことだし、僕自身も『新しい環境でチャレンジしたい』という気持ちが少しずつ湧いてきたんです。
エージェントと話して、最終的にレイカーズへの移籍が決まりました。ウィザーズではたくさんの経験を積ませてもらったし、今でも感謝しています。」
ウィザーズ時代を振り返って
インタビュアー
「今振り返ってみると、ウィザーズ時代はどんな時間でしたか?」
八村塁
「NBAの基礎を学んだ4年間だったと思います。NBAの試合のリズム、フィジカルの違い、プロとしてのメンタリティ、トレードやビジネスの側面……すべてを学べた場所ですね。
レイカーズに来て、また違う環境に適応しなきゃいけなくなったけど、ウィザーズ時代の経験があったからこそ、今の僕があると思います。」
6. レイカーズ移籍の決断――「僕にはまだ早すぎる」
インタビュアー
「ワシントン・ウィザーズからレイカーズに移籍する時、かなり悩んだそうですね。」
八村塁
「最初は本当に迷いました。レイカーズはNBAの中でも特別なチームで、注目度も高い。プレッシャーも桁違いだし、僕の中では『まだ準備ができていない』という気持ちが強かったんです。だから、エージェントに『ちょっと考えさせてくれ』って言いました。」
インタビュアー
「具体的にどんな部分で迷ったんですか?」
八村塁
「ウィザーズにいた時は、プレータイムももらえてたし、ある程度自分のペースで成長できていました。でも、レイカーズは違う。チームの目標は常に優勝、すべてが『勝つため』に動いている環境なんです。
そんな中で、僕は本当にフィットできるのか?試合に出るチャンスはあるのか?レブロンやADみたいなスーパースターとプレーすることになるけど、自分はそのレベルに達しているのか?……いろんな不安が頭をよぎりました。」
インタビュアー
「確かに、レイカーズはただのチームではないですよね。」
八村塁
「そうなんですよ(笑)。しかも、その時レイカーズはプレーオフ争いの真っ只中で、『チームを救う存在』として期待されているのも分かっていました。正直、それがすごく怖かった。
最初は『そんなチームに行く準備ができているのか?』っていう気持ちが強くて、エージェントに『やめたほうがいいんじゃないか』とさえ伝えたんです。」
インタビュアー
「でも最終的には移籍を決断しましたね。」
八村塁
「はい。エージェントが『レイカーズは君を必要としている』って何度も言ってくれて、それで少しずつ考えが変わっていきました。
その時のレイカーズは、ケガ人も多くてチーム状態があまり良くなかった。だから、『自分が入ることで、何かを変えられるかもしれない』と思うようになったんです。
それに、エージェントが『これ以上のチャンスはない。お前が本当にNBAで成功したいなら、この環境に飛び込むべきだ』って強く説得してくれて。最終的に、『よし、やってみよう』と覚悟を決めました。」
インタビュアー
「移籍が決まった時、どんな気持ちでしたか?」
八村塁
「信じられなかったですね(笑)。エージェントから『レイカーズに決まったぞ』って電話が来た時、最初は『え?本当に?』ってなりました。
『レイカーズ?本当に?あのレイカーズ?』って(笑)。最初は現実感がなくて、何が起こっているのかよく分からなかったですね。」
インタビュアー
「レイカーズに移籍して、最初の試合を迎えた時はどうでしたか?」
八村塁
「もう、めちゃくちゃ緊張しましたよ(笑)。レイカーズのユニフォームを着て、ベンチに座った時、『俺、本当にここにいるんだ…』って改めて実感しました。
最初の試合はクリッパーズ戦だったんですけど、アリーナの雰囲気がすごくて、試合を見ながら『これは本当にすごいチームに来たな』って感じました。」
インタビュアー
「今振り返ってみて、移籍の決断は正しかったと思いますか?」
八村塁
「間違いなく正しかったですね。レイカーズに来て、自分のプレースタイルも変わったし、『勝つことの重要性』を本当に理解できるようになりました。
プレーオフを経験して、優勝を目指すチームの一員になることがどういうことなのかも学べた。最初は怖かったけど、あの時決断して良かったと心から思います。」
7.レイカーズ入団直後の苦労――「すべてが違いすぎた」
インタビュアー
「ウィザーズからレイカーズに移籍したばかりの頃、何か大変だったことはありましたか?」
八村塁
「めちゃくちゃありましたよ(笑)。まず、環境がまるで違いました。ウィザーズでは観客の入りがまばらな試合もありましたが、レイカーズの試合はどこに行っても満員。しかも、どのチームもレイカーズ戦になると気合いが違うんです。まるで毎試合がプレーオフみたいな雰囲気で、これはすぐに実感しましたね。」
インタビュアー
「そのプレッシャーはやはり大きかったですか?」
八村塁
「はい。レイカーズは世界中のファンに注目されているチームなので、試合だけじゃなく日常のすべてが監視されているような感じでした。空港に着いた瞬間からカメラがあるし、練習場に入る時もカメラ。何をしても話題になるので、最初は慣れるのに時間がかかりましたね。」
インタビュアー
「コート上ではどうでしたか?」
八村塁
「プレー面では、すぐにチームの役割を理解して適応する必要があったのが大変でした。ウィザーズではある程度自由にプレーできた部分もありましたが、レイカーズでは、より明確な役割が求められました。特に、ディフェンスやリバウンドでの貢献が重要でしたね。
それと、試合の流れや戦術を理解するのも大変でした。レブロン(ジェームズ)やAD(アンソニー・デイビス)といった超一流の選手たちと一緒にプレーするのは本当に特別な経験だけど、彼らのレベルについていくのも必死でした。」
インタビュアー
「レブロンやADからは何かアドバイスをもらいましたか?」
八村塁
「たくさんもらいました。特にレブロンは、試合中や練習中にすごく細かく指導してくれるんです。僕がどこに動くべきか、どんなタイミングでパスを出すか、ディフェンスの立ち位置など、細かい部分までアドバイスをくれました。
最初の頃は緊張しましたけど、だんだん『この環境に順応しなきゃ』と思えるようになりましたね。」
インタビュアー
「移籍直後の試合では、最初はベンチからのスタートでしたよね?」
八村塁
「そうですね。でも、少しずつプレータイムが増えていって、プレーオフの頃にはローテーションの重要な一員になっていたと思います。最初は『レイカーズの一員なんだ』という実感がわかなかったけど、プレーオフを経験することでようやく『自分はこのチームの一部なんだ』と感じられるようになりました。」
インタビュアー
「改めて、レイカーズというチームに移籍して良かったと思いますか?」
八村塁
「間違いなく良かったですね。レイカーズに来て、バスケットボールに対する考え方が変わったし、より高いレベルでプレーするために必要なことが分かりました。今は、もっと成長して、このチームの勝利に貢献したいという気持ちが強いですね。」
8. 今後のキャリアと目標――優勝を目指す戦い
インタビュアー
「今後の目標は?」
八村塁
「NBAチャンピオンになりたい。レイカーズに移籍してから、勝つことの重要性を実感しました。2022-23シーズンは西カンファレンス決勝まで行ったけど、次はもっと上を目指します。」
まとめ
バスケットボールを始めたのは13歳。言葉も通じないアメリカでの挑戦、NBAドラフト直後の葛藤、レイカーズ移籍の決断、そして突然の大金――八村塁の人生は、挑戦と努力の連続だった。
彼の「夢を信じ、努力し続ける力」は、多くの人に勇気を与える。今後の彼の活躍に期待したい。
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